ミューズアソシエイツのホームページへ パシフィカファンドのホームページへ JTPAのホームページへ 梅田望夫
the archive

対談 今北純一×梅田望夫「欧州の真の力強さとは何か」

2001年7月1日[中央公論]より

梅田 特にここ数年、ドッグイヤー(七倍速)的な時間が流れるシリコンバレーで、かなり激しく仕事をしてきたせいかもしれないのですが、昨年11月、パリ左岸のビュシー通りからジャコブ通りへと歩いていたとき、突然強い衝撃を受けたのです。あとから言葉で無理に表現すれば「この街では正しいことが正しく行なわれている」という感覚でした。それで半年も置かずに、無理に休暇を取って、またパリにやってきました。

今北 面白いですね。その印象は、人々の顔から来たのですか。

梅田 後から考えれば、街並みの美しさはもちろんですが、店でモノが売られている様、人々の表情や生活のあり方、ゆったり流れている豊穣な時間、そんなものの総体だったような気がします。私は、IT革命のフロンティア開拓のすさまじさ、面白さに惹かれて、シリコンバレーを生活の基盤としているのですが、最近は、アメリカの競争社会がますます過酷になり、二極分化が進み、人々の不安が増大し、アメリカ人ひとりひとりの生活という観点からは、決して幸せを追求する方向には向かっていない気がするのです。そんなアメリカの現実が、私の中で鮮やかに相対化されたことが、パリを歩いていて強い衝撃を受けた原因だったのかもしれません。

今北 梅田さんが歩かれたその一角は、パリの宝物とも言うべき素晴らしいところです。

 特にビュシー、ジャコブ、ドーフィーヌといったバス停にして二停留所四方ほどの一角は、時空間を超越した、パリのもっとも生き生きした一角です。道路に面した一階には、レストランだけではなく骨董店・画廊、映画館、花屋、ブティーク、本屋、貴金属ショップなどが立ち並び、こじんまりしたホテルと公園があちこちにあります。各建物やアパルトマンの二階より上に住んでいる人たちは、芸術家、哲学者、ジャーナリスト、大学教授、企業幹部、学生、官僚とまちまちですが、伝統的にインテリゲンチアが多く、また国籍も千差万別です。それからもうひとつ。この界隈で働く人々は皆仕事にプライドを持って生きています。

 私の行きつけの散髪屋も、この一角のポンヌフの近くにありますが、ここのピエールは30年前から相変わらずのバリカンで髪を切ってくれます。私がここまでわざわざ足を伸ばすのはピエールの顔を見て、一言二言会話を交わす為です。彼は朴訥で言葉少ななのですが、なにしろ仕事をしている時の彼の顔が実にいいのです。

 このように「地元の人たち」のコミュニティーがまずあって、一つの生活サイクルが回り、しかもこのサイクルは何百年と続いてきた実績に裏打ちされている。建物を直すときもフレームは残す義務があるなど、よい伝統を残すというコンセンサスもきちんと社会に根付いています。

 タイムトンネルを超えた歴史の蓄積と、個人個人の「いい顔」の集合があって、ひとつのユニークなコミュニティーに奥行きと躍動感をあたえているから、梅田さんが「正しいことが行なわれている」と直感したような空気と雰囲気を醸し出しているのでしょう。

「懐が深い」ヨーロッパ

梅田 私の場合、90年代のほぼすべてを、アメリカと日本の間を行ったり来たりしながら過ごし、特に94年からシリコンバレーに住むようになりました。日本を離れてアメリカに住むことで、はじめはヨーロッパが近くなったという感覚を持ちました。日本との距離感という物差しでのみ、モノを見ていたのだと思います。日本では「欧米」という言葉を軽い気持ちで使いますからね。でもしばらくして、自分がアメリカ・ビジネス社会の一部になってしまったときに初めて、その「欧米」という言葉が消えて、「欧」と「米」が何と違うものなのかと、ようやく体感できるようになった気がするのです。

今北 「欧米」という言葉が消えたというところでドキッとしましたが、私も「欧米・対決社会でのビジネス」を書いた頃には、まだ自分の頭の中で「欧米」というくくり方をしていました。その後、ヨーロッパ社会にインテグレートされようと一所懸命努力して、ヨーロッパ人たちからメンバーの一人だと認知され始めたとき、「欧」と「米」がいかに違うかを自分で感じ始めました。だから、非常によく似た経験をしているのだと思いますね。

梅田 「欧」と「米」の違いの今北さんにとってのエッセンスは何なのでしょう。

今北 やっぱりヨーロッパにおける「懐の深さ」ということに尽きます。私自身もともとヨーロッパ志向はなくて、「アメリカに行きたい」という強い気持ちを皆と同じように自然に持っていましたので、最初の留学先はアメリカでした。

 30年前のそのアメリカで、今では当たり前の考え方になっているかもしれませんが、「優秀な学生達が目指すものは必ずしも大企業だけではなく、自分のやりたいことを優先する生き方を皆がしている」ことに新鮮な発見があり、同時に「リスクをかけないですむ代わりに精神的自由がほとんどない」という日本の企業人としての自分の状況を、強く意識するようになりました。でもその後に「さぁ、もう一度アメリカに戻ってやってやろう」という気持ちは起こりませんでした。

梅田 それはなぜだったのでしょう。

今北 アメリカが、「社会で成功すること、イコール、アメリカンドリーム」、「成功すれば年収が増えて知名度が上がって云々」という実にシンプルな価値観に支配されていると直感したからだったと思います。むろんその価値観の範囲の中で、素晴らしい自由がある、挑戦はできる、失敗は許容される。でも、私の想像を絶するような考え方や生き方にアメリカでは出会わなかった。それが「もう一度アメリカで」というリビドー(本能的衝動)が生まれなかった原因でしょう。

 「他人との比較において成功しているかどうか」というアメリカ的物神崇拝的な物差しではなく、自分の物差しを自分の生き方に持つという精神的自由が、ヨーロッパの「懐の深さ」を形作っていると思います。

 たとえば、私はエンジニア的思考をする方なので、偶然というのは必然よりも格が下だという思いがもともとはありました。でも、ヨーロッパに来てから、偶然と必然というのは同格なのだと強く思うようになりました。人と人との出会いを偶然だと言う人がいるけれど、御互いに何かを持っているから出会いがあります。個人が皆、何か総合的な信号を出している。そんな皆の信号の何を掴み取るかが、ある個人の選択だということです。一本の筋がどこかで通っていると、そのことは別のところで何か一本通している人には必ずわかるものです。

 だから、職業を越えて、ビジネスマン同士だけでなく、匠の世界を持つ職人、音楽家、作家、アルピニスト、思想家といった、知的冒険・精神的挑戦を命ある限り続けていく人たちとの間で、深いレベルの共振が起こります。そういう対人関係における選択肢の広さが、ヨーロッパの「懐の深さ」における基軸になっている気がします。ヨーロッパの生き方がいい事ずくめであるわけではありませんが、個人の生き方として私が気に入っているのは、自分の生き方は自分で決められるという意味での選択の自由度がすこぶる大きいという部分です。

二人のフランス人

梅田 今北さんの場合、最初がアメリカに留学、そして招聘教官としてオックスフォード大学、ジュネーブのバッテル記念研究所と、最終的にパリに落ち着かれるまでに、かなりの時間がかかっています。

今北 もともと私がヨーロッパを目指した時にはフランスがパースペクティブ(将来的視野・展望)の中に入っていなかったのに、知れば知るほどフランスの総合的な、つまり、物質的かつ精神的な豊かさには魅惑されます。おそらくこの豊かさはパリという街の豊かさに大いに起因していると思います。そしてこのパリの豊かさはいろいろな意味で都市として備えるべきすべてのファクターを包括していて、その凝縮された姿がカルチェラタンの一角のあり方だということでしょうね。

梅田 今、日本では、フランスの強さ、底力のようなものが再認識されているようです。その象徴として、カルロス・ゴーンとフィリップ・トルシェという二人の個人が存在します。

今北 そうですね。この二人から刺激を受けて、日本人がフランスの強さを直感するという感覚は、間違っていないと思います。二人とも「個人としての底力」を持った人間ですからね。ただトルシェの規格外的マイペースを日本ではもてあましているでしょう。でもフランスの標準で言えば、彼のようなタイプはゴロゴロいます。

 たとえば、私が未来商品開発室長としてルノー公団にヘッドハントされたとき、最初に部下を六人与えられましたが、彼らは、ルノー公団のなかでも、もてあますほどのウルトラ個人主義を徹底した強者ばかりでした。私がボスとして就任したという事実は認めても、知的な意味ではボスとは全く思わない。それはとても強い刺激でした。この連中を動かしていくには、自分が彼らを動かし得るだけの知的な何かを出さなきゃいけない。右向け右では絶対に動かないわけです。

 これは私が誇りに思っている過去の仕事の一つなのですが、最終的にはこのチームで、84年のモーターショーにルノーのコンセプトカー「ダイアログ」を出して大きな成功を収めました。

 第一に、日本の技術を活かして、世界で初めてダッシュボードの表示を液晶にしました。第二に、音声認識と音声合成の技術を組み合わせて、運転席の頭の上にマイクロフォンを埋め込み、ハンドフリーの自動車電話を開発しました。第三に、非接触のカードで高速道路の料金所での自動的に引き落とす、現在で言うITSの考えも導入しました。

 当時としてはかなり斬新だったのですが、その成功の根底には「このグループの知的ポテンシャルを引き出して結集すればかなりのことができる」という発見と確信がありました。ただ、その仕事が終わるまで、結局、誰も私の指示を仰がず、勝手に勝手なことをやり続けていましたけれど。

いい意味での刹那主義

梅田 私も、シリコンバレーで大きな仕事をする連中の「個人としての底力」を、毎日痛感しながら生きていますが、底力の性格と、底力を持った個人を社会が選んでいくプロセスが、ヨーロッパとはずいぶん違う気がします。

 まず底力の性格として、アメリカの場合、総合性よりも徹底的に専門性を突き詰めるということがあると思います。そしてプロセスとしては、世界中に門戸を開いて才能の原石を集め、実にオープンに徹底的な競争を行なわれせる仕組みです。

今北 そこが私もアメリカでいちばん好きな部分ですね。これがアメリカのダイナミズムの源泉でしょうね。

梅田 私もその一点のすがすがしさゆえに、アメリカに住んでいると言ってもいいかもしれません。こんなことは、世界中でアメリカでしか起こりません。特に大学や研究機関とシリコンバレーで顕著なのですが、アメリカ人という概念すらないほどにオープン化、無国籍化してきています。世界各国のトップが来て競い合う。ただ、徹底的な能力主義で競争しますから、当然その競争がヒートアップして、しかも永久に続いていくようになってしまっています。結局「フェアでオープンな競争」という概念を突き詰めていった究極の姿として、休まずに競争し続け、働き過ぎてフラフラになるという、アメリカの現在があるわけです。

今北 そう、あれは疲れますね。だからアメリカ人は皆、五十歳でリタイアしたいと言うわけですよ。アメリカの「五十歳までに成功して、その後好きなことをやる」というアーリー・リタイアメントの概念と強くリンクしていると思います。

梅田 その通りです。私は「ビジネス社会のプロスポーツ化」と表現しているのですが、「十年から二十年徹底的に働いてファイナンシャル・インデペンデンスを達成する」という考え方がアメリカでは半ば常識化しつつあります。ヨーロッパにはそういうアーリー・リタイアメントの概念はないのですか。

今北 燃焼してから何かやろうなんていう考え方はないですね。いったん燃焼してしまったら、やりたいことも燃焼してしまうんだ、ということです。肯定的な意味での刹那主義です。いまという時間は二度と来ないのだからという積極的な意味で、ヨーロッパ人は今を楽しむことの天才なのですね。

 たとえば、ランチ、ディナーを楽しむ時間と空間はとても重要です。だから徹底的に楽しむ。アメリカや日本のビジネスランチ、ビジネスディナーとは、全く違った面白さを持っています。

 「五十までがむしゃらに働いて地位や富を得てからリタイア」という図式は、裏を返せば「それまでは仕事以外のプライベート・ライフは犠牲にする」ということです。このアプローチはヨーロッパ人たちにはフィットしません。

 なぜかと言えば、彼らはふだんの生活において、プロフェッショナル・ライフとプライベート・ライフのバランスを巧みに取っているからです。ゴルフに各ホールのリズム、18ホールのリズムがあるように、ヨーロッパ人たちの生き方には毎日のリズム、一週間のリズム、春夏秋冬のリズムがあります。一年の計はバカンスの立案からスタートするというくらい、プロフェッショナル・ライフの前提としてプライベート・ライフを聖域としている風にも取れます。どんなに多忙をきわめるCEOでもこの点については同じで年に5週間のバカンスを取ります。

エリートはやはり出自なのか

梅田 そういうことが可能になるのは、ヨーロッパのエリート選出プロセスがアメリカとはずいぶん違うからなのではないでしょうか。ヨーロッパではエリートはどのようにして選別されてくるのですか。

今北 そう、その答えの前に、エリートという概念の見直しがとても大切ですね。「健康なエリートシステム」を構築しないと日本は危ういと私は思っていますが、その規範となるシステムがヨーロッパにはあると思います。日本ではエリートという言葉が出たとたんにジェラシーで足を引っ張ることになってしまうのが問題です。日本人は、身の回りのエリートに対してジェラシーが先行する奇妙なシステムのなかに封じ込められてしまっています。それを何とかしなければなりません。

 たしかに、ヨーロッパにおけるエリート選別の第一は出自です。アメリカとはずいぶん違います。ただ出自はもうどうしようもありません。生まれたときから持っているネットワークの総合体に自然に恵まれますから、エリートとエリートでないものは峻別されます。ただ、良質なエリートは、自分達が「出自ゆえのエリート」であることをよく知っています。そして、それを恥ずかしいとも思っていないし、自慢したいとも思わない。それが自分の運命なんだという受け止め方をして、実に自然な「いい意味での謙遜」を追求します。まずここが重要なのでしょうね。

 そしてその上で、「出自ゆえ」ということだけでは自分を証明したことにならないから、何かを証明するためのパワーを出す。今は七光りでここに居るのだと自然に受容した上で、「それだけではない何か」を自ら作るために、強いドライビング・フォースが働くのです。出自の良いエリートがいい方向に向かうと何倍ものパワーになるところが凄く強い。そういう人達がやはりヨーロッパを動かしていますね。

 次は、まわりがそういう人をどう思うかという問題です。ジェラシーなんてないのです。「彼は別格」という感覚で皆が捉えます。数はものすごく少ないですからね。一人ひとりの個人が自分の小宇宙を持って、自分がやっていることを幸せに感じていれば、ジェラシーにはつながりません。出自も良くて能力も高い人に「お願いします」という感じになる。「私にはそれはできません。でも応援することならばできます」という気持ちを皆が持つようになれるのが「健康なエリートシステム」なのです。

 この「彼は別格」という感覚が日本にありませんね。政治家だって、賄賂なんていうものを全く必要としない資産家で、しかも能力の高い人に任せなければならない部分はたくさんあると思うんです。

 一方でエリートの側も、「私は選ばれた人だから偉いのだ」ということは全くなく、「達成すべき義務」を果たす存在でなければならない。ちょっと有名になると偉そうにするのは「えせエリート」以外の何者でもありません。もちろんフランスにもダメな人はたくさんいますが、わかっている人はちゃんと自然体で行くのです。突き詰めれば人生観の問題です。自分がある能力を持って生れ落ちたということは神の意志、その自分に与えられたミッションをきちんと達成するのが使命だという義務感でしょう。

梅田 エリート選別のもう一つは能力主義ですか。

今北 実は、能力主義と学歴主義の混合です。まず学歴でふるい分けして、そのなかから優秀な人間を選んで、どんどん昇進させていくシステムになっています。学歴偏向の弊害はもちろん強くありますが、これが効率的だということなのでしょう。学歴がなくても、一つのことを好きでやり続けている人の中に凄い人が居るのは確かです。ただそういう人を探すシステムを構築するのは、社会としてとても手間がかかります。

梅田 シリコンバレーというのは、そういう才能を、本当にきちんと活用していきます。もちろん完璧なシステムではありませんが、特にテクノロジーとサイエンスの世界では、学歴よりも、持って生まれた才能のあるなしの差は歴然としていますからね。その才能を発掘していくアメリカの積極的な社会システムは本当に凄いと思います。そしてそれが世界に開かれていますからね。

今北 そうなのでしょうね。ここがヨーロッパの弱点ですね。アメリカほどエリート校の出身でない優れた技術者が登用されることはありません。エリートシステムがある代わりに、見えないカーテンで階層があって、その階層を飛び越えることの難しさがある。ここが、ヨーロッパがダイナミズムという意味でアメリカに遅れる原因ですね。

文化・伝統に根ざした「知性」

梅田 ところで、フランスは世界に対する開放性という点ではどうなのですか。

今北 基本的には非常にドメスティックであるのは事実です。ユーロへの動きとリンクして、フランスも、自分たちのエリートシステムがフランス国内でしか通用しないものかもしれないということに気づきはじめています。ただ特に最近は、東欧に開かれてきました。留学生のシステムさえきちんと作れば、知的レベルが非常に高いルーマニアをはじめとする東欧諸国から優秀な人たちが大挙して来るようになるでしょう。研究開発の世界では、個人の一本釣りで国籍と無関係に優れた才能をどんどん集めていますね。

 ただビジネスマネジメントの世界になると、国際的なビジネスマンを育ててこなかった反省も含めて、何とかしなければならないという危機感に溢れています。英語もフランス人は上手じゃありませんし、汎ヨーロッパで通用する能力を養成しなければなりませんからね。

梅田 そんなやや閉鎖的な世界のなかで、カルロス・ゴーンという人はやはり異端なのですか。

今北 むろん異端の人です。だから「エスタブリッシュメントではないからルノーの後継社長になるわけがない」なんて言う人がいますが、今はもうそういうレベルの話ではなくなりましたね。たしかに、日産にカルロス・ゴーンを送ったときは「異端の人を送っておけば、怪我をしてもエスタブリッシュメントは傷つかない」みたいな発想もあったかもしれませんが、もうそんなことはない。彼は経営者として、いまフランスでもたいへんな尊敬を集めています。

 ヨーロッパのエリート達の自尊心は非常に強くて、自分がやっていることについては自分がいちばんだと皆思っています。だからそこにダイレクトにコンフリクトを起こす相手だと、徹底的に排斥するという動きに出ることがあります。自分の存在意義が危うくなるからです。

 ただ一方で、ヨーロッパ人というのは知的好奇心の塊なので、自分が逆立ちしても手に入らないような知的な部分を持っている人に対しては、その才能がどういうものかはわからなくても、動物的直感で受け入れていく。その直感がすごく鋭いです。フランス人の「懐の深さ」の根底には「強い知的パワーを持った人間に対しては全面的にウェルカム」という思想があると思います。

梅田 アメリカは、世界中から原石のような才能を集めて競争していける環境をプロセスとして社会に根付かせているわけですが、フランスは、ある程度完成した知性を選択的に受け入れていくということなのでしょうか。

今北 むしろアメリカとの違いは、もっと根源的なのではないでしょうか。アメリカは、最後に国力に結びつくことを予測して、世界から才能ある人達を集めたし、集めているのだと思います。それが世界でリーディングポジションを持ち続けるための重要な戦力だと思っているからでしょう。それは、アメリカの歴史のなさへのコンプレックスの裏返しでもあるのでしょう。一方、ヨーロッパは、知的に素晴らしい人に対しては、純粋に尊敬の念があるのです。

梅田 経済的効果としての「戦力」という考え方のアメリカに対して、文化・伝統に根ざした「敬意」という思想がヨーロッパだということですか。

今北 まったくその通りですね。完成されたものを入れるというのではなく、「未完成なものでも知的好奇心を激しく刺激されるものがあれば尊敬する」というのがヨーロッパ的で、「形が見える、計算が立つ世界の能力を重要視する」のがアメリカ的という気もしますね。

 アメリカが大切にするのは「計量できる能力」で、結局は、製品の秀逸であり、企業の業績であり、株価に還元されていく。成功すれば報酬を手にする。実に具体的なのです。「見えない能力」を評価する物差しの数が、アメリカには少ない。眼光の鋭さや、議論で追い込まれたときにユーモアで切り抜ける能力とか、そういう総合力を合体させて、人を評価していくのがヨーロッパ的でしょう。

 たとえば、私がルノーからヘッドハンティングされたとき、最初のミーティングに指定されたパリの住所を訪ねましたが、いくら探してもない。結局はそれがセーヌ川の船の上だということが時間をかけてやっとわかったのですが、そういう遊びの部分がいつもビジネスの中に仕掛けられていて、総合的な個人の能力をはかっていこうという姿勢があります。

 また、文化・伝統に根ざした知性への敬意というのは、やはり歴史の重みということにもつながるでしょう。私がここフランスで、日本人として心地よく暮らしているのは、日本の歴史ゆえです。紫式部という女性は1000年前に小説を書いているわけだし、真の国際人の源流たる阿倍仲麻呂は八世紀の人ですからね。フランス人に「あなたたちは1000年前には国がなかったでしょう」と言うと、彼らでさえ、ガクっと来ますよ。

対グローバリゼーション

梅田 ところで、世界のビジネス社会はIT革命とグローバル化による競争激化が続いています。そんな中、ヨーロッパのエリートたちは「心の余裕」を持ち続け、豊かな生活を相変わらず続けていくことができるでしょうか。

今北 「豊かであり続けたいと思っている」ということが大切でしょう。第一に、家族があってはじめてパワーが出るということを、皆本当によくわかっています。これが日本では全く理解されませんね。「自分がやりたいことを優先する。家族がその最小単位として機能することが仕事でのパワー発揮の前提である。今やっておきたいことと何十年か先にやりうることは置換できない」という「個としての自分を優先する原則」が、ヨーロッパ人に共通しているということです。社会システムにおいては、この個人主義がややもすると利己主義に脱線するのをいかに制御するかという課題が常に付きまといますが、ヨーロッパの個人は自分の小宇宙を持っています。

 ただグローバル・メガコンペティションの中で、自分達だけでバカンスを決めるわけにもいきません。でもチームで仕事をするとき、ある人が「バカンスだから」と言ったら、もう誰も何も言いません。「バカンスのスケジュールを変えてくれ」なんていうことはあり得ない。そのくらい聖域なのです。

梅田 でも激化するスピード経済の中で、重要な意思決定をしなければならないタイミングが日々刻々と訪れます。そのときに重要なポジションに居る人が仕事をしていなければ競争に負けてしまうではないか、そんな感覚がアメリカには強く、人々は皆、働き続けるようになってしまっています。

今北 最近こんなことがありました。私の友人で、フランス企業の社長をやっている男がいます。彼はむろんきちんとバカンスを取ります。彼の別荘に仲の良い友人達が呼ばれて楽しい食事をしてしたとき、食事中に携帯が鳴ったのです。きっとビジネスの非常事態だったのでしょう。彼は「失礼」と言って席を立って、電話がかなり長くなってしまった。

 そうしたら彼の奥さんが「バカンス中に、こんなに長く仕事の話をしなければならないっていうことは、あなたはあなたの部下を全く育てて来なかったということなのね。あなたの責任じゃないの」と大きな声で、彼に聞こえるように、怒り出したわけです。まわりの友人たちの方が青くなってなだめるほどでした。

梅田 フランス人の奥さんは強いのですねぇ。

今北 それもあるけれど、そんなに仕事ばかりしていたら、ご主人の身体がもたない、ということを心から心配しているということもあると思いますね。

「効率」だけでいいのか

梅田 私は、「ゆとりを持った生き方をするいきいきとした個を中心とした経済システム」が、果たして国際競争力を持ち得るのかということが、これからの非常に重要な問題だと思っています。

今北 大きなテーマですね。でもそこが本質でしょうね。

梅田 IT革命がアメリカという国を震源に始まったということはある種の必然でした。IT革命の本質というのは、本当にアメリカという社会の成り立ちと表裏一体のものだと思うからです。

 まず、アメリカでは、専門性を究めて世界一を目指して競争していくという考え方が根強いですが、IT技術は、細切れな分野でのベストを集積して「ベスト・オブ・エブリシング」の形にまとめあげて価値を創出することに大変な力を発揮します。

 そして、社会の二極分化を許容していくというアメリカの現実も、IT革命との親和性が非常に高いのです。IT化というのは、ほんの一部の非常に優れた人達の考えた仕組みを、一気に末端まで波及させることが可能です。上意下達の究極ですが、その途中に中途半端な個は不要になります。二極化した上側が考える。下側が末端の仕事をする。上側は業績に応じた成功報酬。下側は時間単価のグローバル競争という感じで、企業の効率を徹底的に高めていくわけです。そして総仕上げが、企業は株主のために存在するのだという概念です。企業というものが非常に無機的だという前提を持ったとたんに、ITは最高の道具になるからです。

 アメリカ社会の成り立ちとIT革命の本質との間に、暗黙の親和性が強く存在するからこそ、そして、しかもこのアメリカ流IT化の効果が出る出方がもの凄いからこそ、アメリカはITに興奮しているのだと思います。

今北 日本もそうでしょうが、ヨーロッパにもそこに不安を感じている人がたくさん居ると思いますね。

梅田 私は、IT革命とヨーロッパ社会のあり方というのは、なかなか相容れないものだと思っていますが、アメリカがネットバブルに熱狂していた間も、ヨーロッパはずいぶんシニカルに遠くから見ていましたものね。

 私の仕事について言えば、私のクライアント企業はみな日本のIT企業なので、戦略コンサルティングの仕事の背骨になる基本的考え方は比較的シンプルですみます。というのは、こうした日本企業は、アメリカ企業の中でも最も闘争心に富んだ強烈なIT企業たちと徹底的に競争して勝たなければなりません。勝つか、少なくとも引き分けくらいには持ち込まないと、幸せも何もあったものではありませんから、競争ということをファーストプライオリティにして戦略を考えていくしかないからです。

 ただ、では「日本全体としてIT革命を」とかいう広い議論になると、とたんに深く悩んでしまいます。IT革命というのは、実はいまのところ、アメリカ流でやる以外、その経済効果は証明されていないからです。日本やヨーロッパは、果たして、アメリカと同じ方向で競争していくべきなのだろうかという問いかけです。なかなか解がみつかりません。

今北 そこがポイントでしょうね。効率ということで押し切るのであれば、アメリカ流合理性は素晴らしいでしょう。でも人間というのは効率とか収益とかそれだけで生きているのですか、ということです。

 また「個人の底力」という言葉に戻りますが、個人が底力をもう一回見直さない限りダメでしょう。結局は個人の勝負になっていくと思うからです。あらゆる階層の人々が、個人としてモティベーション高く仕事をしていけば必ず底力が出てくるはずでしょう。そして、あらゆるベクトルを持っているのが個人ですね。そういう多様な個の層を分厚くしていくことです。皆のベクトルが同じならば、人数が多くても層が厚いとは言えません。個人のモティベーションを置き去りにして効率だけを追求すれば、殺伐とした中でただただ疑心暗鬼になって、誰かエリートが出たら足を引っ張るというまずい方向に向かってしまうのだろうと思います。

 私は、日本はヨーロッパ的な人の見方をかつてはしていたと思うのです。計量化できない人間の器量を判断するという習慣が昔はあったはずなのに、今はそれを忘れてしまったのではないかと思う。日本の場合、才能のある人を見分けて登用する立場にある人達の器量がどんどん小さくなっていることにも問題があるでしょう。トップの器量が大きければ、どんどんやればいいだけなのですからね。これが日本の閉塞状況の原因の一つです。

 本質的にいえば、ヨーロッパと日本が理解しあえる部分は、アメリカ的な計量化できる部分ではなくて、人間と人間が個として対話できるという点にあるはずです。ただ残念ながら、ヨーロッパから見て、日本の政治家にも企業幹部にも、個人としての存在感を感じる相手があまりたくさんはいない。そこに現在のヨーロッパの日本に対するフラストレーションの源泉があるのです。

ページ先頭へ
Home > The Archives > 中央公論

© 2002 Umeda Mochio. All rights reserved.