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任天堂復活が示す、日本企業の未来図

2007年2月10日[中央公論]より

 ハワード・ストリンガーを会長兼最高経営責任者(CEO)に据えた一年半前の経営体制刷新の効果も表れぬまま、長く混迷が続くソニー。それを尻目に、発売から二年で携帯ゲーム機「ニンテンドーDS」三〇〇〇万台を世界で売り、業績の大幅上方修正を繰り返す任天堂。

 昨年末投入された新製品「Wii」の爆発的ヒットの予感も伴い、年末年始ゲーム商戦の主役はソニーでなく任天堂であった。「プレイステーション2」の成功で独り勝ちを収めたソニーが「ゲーム機戦争は終わった」と宣言したのは二〇〇二年五月のこと。任天堂の今日の復活を、そのとき誰が想像できただろう。「任天堂はもう終わり」という当時の雰囲気を記憶する者として感慨深い。

 復活の立役者は、〇二年に任天堂社長に就任した岩田聡。今年四十八歳を迎える年男である。たかがゲーム業界の一経営者をなぜ「時評」欄で……と言うなかれ。私は、岩田聡から日本企業社会の一五年後の希望が見えると、心から思うのだ。

 かるた、花札、トランプを商う京都の老舗の創業家に山内溥というカリスマ経営者が登場したことで、八〇年代前半、「花札の任天堂」は「ファミコンの任天堂」に生まれ変わった。以来、世界のゲーム業界を二〇年以上にわたり牽引した山内が、「任天堂の未来」「ゲーム業界の未来」を託したのが岩田聡だった。

 社長就任から一年後、岩田は「東京ゲームショウ」の基調講演で名演説をした。ゲーム機の高性能化、ゲームソフトの高機能化競争はゲーム産業を衰亡に導く。その証拠にゲーム人口は減るばかりだ。過去の成功体験を捨てて原点に立ち返り、誰にでも前提知識なく楽しめる「間口が広くて奥が深い」ゲームの実現のため、業界が一丸となって努力しよう、それなしには業界全体がゆっくり死ぬのをただ待つことになる。そう訴えた。

 「理念はわかるが具体的にどうやってそんなことを短期間で実現するの」という「お手並み拝見」的な視線を内外から浴びながら、岩田はオープンにビジョンを語り、共鳴する仲間を一人ずつ増やしてはそのエネルギーをかき集め、大ヒット商品の創出へと結実させていった。「ニンテンドーDS」の大ヒットに続き、「間口が広くて奥が深い」ソフトの新ジャンルを開拓。立て続けに「脳を鍛える大人のDSトレーニング」「おいでよ どうぶつの森」「ニンテンドッグス」といったミリオンセラーを世に出し、日本ばかりでなくグローバルにも普及させた。社長就任から「Wii」発売に至る一連の経営執行は見事の一語に尽きる。スティーブ・ジョブズ(アップル)の才能にため息をつく前に岩田聡を見よ、と私はいつも思う。

 岩田は高校生のときからゲーム作りが好きで好きで仕方なかった。作ったゲームで皆が遊ぶのを見るのが何より楽しかった。今で言う「ハッカー」「ギーク」のはしりである。東京工業大学卒業後、ハル研究所というゲームソフト・ベンチャーの創業に参画した。しかし一〇年後、ハル研究所は和議申請に至り、「三十代前半の一開発者」に過ぎなかった岩田が社長に就任。ヒット商品を世に出すことで何とか再建に成功し、九九年、和議の手続きを終了させた。その過程での岩田のすべてをじっと観察していたのが任天堂の山内だった。ハル研究所の再建を終えた岩田を、山内は任天堂にスカウトする。そして二年の準備期間を経て、山内は創業家と縁もゆかりもない三十二歳下の岩田を後継社長に指名したのである。

 一流大学を出ても「好きなこと」を貫き、ベンチャーに参画(二十代)、苦労しながらも経営経験を積み、その過程で大企業経営者とも出会い(三十代)、活躍の舞台をより大きな場所へ移していく(四十代以降)。これが岩田のキャリアパスの要約だが、彼より上の世代にはこういう道を歩んだ人材の層が薄い。しかし日本でも、一九七五年以降生まれの若い世代においては、進取の気性とバイタリティに溢れる優秀な人材ほど「日本株式会社」ではない道へ進む傾向が徐々に強まってきた。

 一五年後の日本企業社会を考えるとき、新卒で「日本株式会社」的世界に進まなかった潜在能力の高い若者たちが、成功したり失敗したりしながらも密度の濃い人生を歩み、岩田のような人物に大きく成長して「日本株式会社」に還流する姿を私たちは思い描くべきだ。今こそ岩田聡という先駆者を、若者たちの新しい「ロールモデル」(お手本)として見つめ直す必要があるのである。

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