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新世界を垣間見せてくれる「超・旅行記」
--- 中野独人『電車男』

2004年11月15日[波]より


 世界最大の匿名インターネット掲示板、2ちゃんねる(2ch)。これは現代日本に生まれた「巨大な混沌」である。毎日数百万人が訪れる2ch上には、罵詈雑言や誹謗中傷も含めて無数の書き込みが行われる。しかしその大半は、ほんのわずかな時間だけネット上に存在して消えていく。今年3月14日から15日にかけて「電車男」と名乗る匿名の男が行った一連の書き込みも、そんなネットの藻屑と化すはずのものだった。

 しかし、その書き込み内容から垣間見える「電車男」の人柄には、現代日本のヒーローたるべき何か不思議な力が宿っていたのであろう。その「電車男」の潜在的な力が、大勢の2ch住人の力とインターネット上で相互作用を引き起こし、5月16日までの2ヶ月間に、奇跡とも言うべきストーリーを紡いだ。本書は、2ch上で現実に起こった書き込み群を時系列にそって並べることで、その経緯を忠実に再現したものである。

 言うまでもなく、日本の若者たちはこのストーリーをインターネット上で読んでいた。「感動しますた」「読み始めると他のことが手につかなくなるので、どうぞご注意を」「家事を放り出してでもご一読のほどを」といった感想がネット上に溢れた。私も6月に入ってまもなく、若い友人に教えられて一気に読んだ。そして読後、これは「2ch文学の誕生」とでも呼ぶべき瞬間に立ち会っているのかもしれないと思った。

 2chの書き込みは、奇妙な言葉遣い、独特のユーモア感覚に根ざした文字遊び、文字・数字・記号を組み合わせて作る絵(アスキーアート)などがいっぱいで、初めての人にはとても読みにくい。「神」と書くべきところを部首で分解してわざわざ「ネ申」と書いたりする。ネット上に普通に何か書けばすぐさまグーグルのような検索エンジンによって発見されてしまう管理社会的気分への抵抗心もあって、一般人には容易に検索され得ない変な言葉が、若者たちによって発明されたからなのである。

 だから本書をパラパラとめくって、普通の本と違って読みにくいことを理由に「私には読めない」と投げ出すことなかれ。カバーをめくれば、表紙には2ch用語の解説もついている。「新しい方言や若者文化に触れてみよう」くらいの気持ちで、本書の最初の20ページを読み通してみてほしい。そこまでたどりつければ、巻末までは一気に読み進められるだろう。

 インターネットが登場してまもなく十年になる。しかし相変わらず、インターネットとはいったい何なのか、これから社会にどういうインパクトを及ぼすのかということを、多くの人たちが全く理解できていない状況にある。理解できないから排除したくなる。それが、特に既得権を脅かされる予感にだけは敏感なエスタブリッシュメント層の心理だ。

 ではなぜインターネットは理解できないのか。

 リアルワールドで起きていることについては、それが地球上のどこで起こった出来事であれ、瞬時に報道されるシステムが出来上がっている。そのことを特に意識せずとも、ごく普通に暮らしているだけで、だいたいの大切な出来事については自然に耳に入ってくるという安心感を、私たちは持っている。

 しかしインターネットの中で起きていることは、自分から見に行かない限り、そして時には参加しない限り、全く見えないのである。自分から行動を起こして、パソコンの向こうに展開する新しい世界を見ようとしない限り、皆目わからない世界なのだ。 だからインターネットを知らずリアルワールドにのみ暮らす人々と、一日のかなり多くの時間をインターネットの中で暮らす人々との間に、いろいろな意味での深い断絶が生まれようとしている。

 本書は「好奇心を持って読む」という行動を起こしさえすれば、インターネットを体感したことのない人たちにも新世界を垣間見せてくれる、中世から近世にかけての「旅行記」のようなものなのかもしれない。

 最後に、老舗出版社である新潮社から「電車男」のストーリーが出版されたことは、極めて意義深いことだと思う。インターネット世界とリアルワールドの橋渡しになること。それがこれからの出版社の新しい役割の一つになるに違いないからである。

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