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オープンソースが生む潮流
ハッカーが産業構造を変える

1998年11月1日[日経PC21]より

マイクロソフトの一強時代が続くかと見えたソフト業界。しかし、今年に入り、新しい流れが生まれ始めた。「オープンソース」と名付けられた開発の仕組みは、ハッカー達の熱意に支えられ、情報産業全体を動かしつつある。

 1994年秋、私は東京での生活を引き払い、活動拠点をシリコンバレーに移した。10年に一度の産業大変革の震源地に我が身を置き、何が起きつつあるのかをこの目で確かめたかったからだ。

 94年秋と言えば、インターネット勃興の兆しが見え始めた頃。ネットスケープがナビゲーターをリリースしたのと時を同じくする。ポータルの主役ヤフー!の創業は、さらに後のことだ。しかし、インターネット産業の勃興期を見つめながら、私は「面白いなぁ、凄いなぁ」と興奮しながらも、自分が「少し遅れてやってきた」存在だと、ぼんやりと感じていた。

 93年秋から翌春にかけ、当時勤めていた経営コンサルティング会社で「日本版情報スーパーハイウエー斯くあるべし」という提言プロジェクトに参画した。日米の識者の多くにもインタビューした。

 当時、と言っても、まだ5年にもならないが、「情報スーパーハイウエーとはインターネットのことだ」と明確に考えていた人はほんの僅か。しかも、インターネットに関わりの深い人達ばかりだったので、彼らの意見は、少し色の付いた「過激な少数意見」として扱われた。私も、個人的にその「過激な少数意見」に「強い引っ掛かり」を持ちながら、最終報告の柱にする踏ん切りがつかなかった。

 後になって、私はこのことを深く悔いた。シリコンバレーに来て、自分が「少し遅れてやってきた」存在と感じ続けた理由は、この痛恨とも深く関係があった。

 94年からの4年間、インターネット産業では、確かに色々なことがあった。しかしすべては、インターネットという「時代の大きな流れ」に「いかに早く乗るのか」という競争であった。しかし、私がここシリコンバレーで待ち続けていたのは、産業構造を変えてしまうほどスケールの大きな全く新しい「過激な少数意見」だった。そして、今年になってとうとうそれに出会った。その怪物の名を「オープンソース」と言う。

 オープンソースとは、あるソフトウエアのソースコードを無料(フリー)で公開し、世界中のハッカーの誰もが自由(フリー)にそのソフトを改良して再配布することを許す開発方式である。

 現在、広く使われているソフトウエア製品は「ウィンドウズ98」「オフィス97」「オラクル8」「ロータスノーツ」「一太郎」…。どれを取っても一企業の閉じた環境で開発されたものばかりである。開発者は、その企業の社員か契約者に限られる。企業は優れたプログラマーを雇い、プロジェクトリーダーを置き、社内に大規模プロジェクトを組織して製品を作る。

 そんな風にして開発されたウィンドウズ98やオラクル8のソースコードは、マイクロソフトやオラクルにとって「企業の知的財産そのもの」であり最高機密。これがソフト産業の常識である。

 この常識に真っ向から挑む「過激な少数意見」がオープンソースだ。オープンソースでは、ソフトの中核部分がソースコードも含めてインターネット上で公開され、世界中のハッカーが寄ってたかって新機能の開発、性能向上、バグの修正を行い完成度を高めて行く。

 ハッカー達は誰からも強制されない。1円も貰わず、ただただ「好きで楽しいから」素晴らしいプログラムを書く。そんなソフト開発の方が、一企業の閉じた環境の中で開発されるソフトよりも遥かに素晴らしいものを生むと、オープンソース信奉者たちは言う。

 ここまで読んだ読者の中には、「オープンソースというから何かと思ったけど、フリーソフトのことじゃないか」と思った方がいるかもしれない。確かに、フリーソフトの考え方は決して新しいものではない。80年代前半にリチャード・ストールマンというハッカーが提唱したもので、優れたプログラムはハッカーの自由(フリー)なプログラミング行為から生まれるもので、成果は広く公開されるべきだという考え方である。

 ハッカー達の目から見て大して優れたモノでもないのに、マーケティング力だけに依存して世の中に普及した商業ソフトに対して、強い敵意を示すという意味で極めて反商業的な思想と言えた。現代コンピューター産業の覇者、マイクロソフトが、彼らの敵意の対象であったことは言うまでもない。

 こんなフリーソフトの世界から、これまでに「マニアや学術関係者が使う小ぶりのソフト」は、たくさん輩出されてきた。しかし、昨年までのフリーソフトの流れは、コンピューター産業全体から見ると、全く取るに足らない傍流だったのである。

 今年に入り、流れは大きく変わる。変えたのはネットスケープによる「コミュニケーターのソースコード公開」と、フリーソフト出身のパソコン用UNIX、「Linux」のビジネス分野での大躍進である。

 98年1月22日、ネットスケープは「コミュニケーターのソースコード公開」を発表、3月31日にソースコードを公開した。以来、世界中のハッカーがソースコードをダウンロードし、機能強化やバグ修正、多国語化に励んでいる。そして半年足らずの間に、大量の開発成果がネットスケープに届けられている。社内資源で開発を続けるマイクロソフトに対して、1桁多い数のハッカー達が自発的に行う開発結果の集積に、ネットスケープは勝負を賭けているのだ。

 95年から97年にかけてのブラウザー競争は、先行するネットスケープを、マイクロソフトが物量にモノを言わせて猛追するという構図だった。プログラマーを大量投入し、プロジェクトの優先度を上げ、ビル・ゲイツの肝いりでエクスプローラの開発を進めた。ネットスケープもその競争に負けじと、95年、異例のスピードで株式を公開して資金を調達、その資金で社員プログラマーをどんどん増やして開発競争に明け暮れた。

 紆余曲折は省略するが、マイクロソフトがこの闘いに勝ち、ブラウザーのシェアをだんだんに高めた。逆に、ネットスケープは97年末から経営危機に陥って行く。

 ネットスケープばかりではない。ほぼすべてのソフトウエア会社が、「マイクロソフトと同じ土俵で、同じやり方で競争したら絶対に勝てない」と強く思った。そんな気分がシリコンバレーに充満したのが97年であった。

 ネットスケープが、「オープンソース」戦略を決断した背景には、Linuxの勃興があった。これは、91年にフィンランドのヘルシンキ大学の学生、Linus Torvaldsが手作りで作ったパソコン用UNIXが中核部品。その周辺に、世界中のハッカー達がネット上で自発的共同開発を行なった結果完成し、今も進化を続けるOSである。多くの米国企業が本格採用に踏み切るほど完成度が高く、ウィンドウズNTの対抗馬として脚光を浴びる存在となりつつある。

 大企業向けデータベースのオラクルやインフォミックスが、Linuxバージョンをリリースすることを決定したのも、大企業の情報システムの中核として無視できないほどのシェアを持ち始めていることの証左である。Linuxは今や、マイクロソフトにとって最大の脅威となり始めているのだ。

 80年代のフリーソフトの流れと、Linuxをはじめとするオープンソースでは決定的な違いが2つある。1つは、これまでのフリーソフトが、一人または数人のハッカー達の「小さな作品」だったのに対して、Linuxは「インターネット上に散らばる、世界中の膨大なハッカー資源を結び付けた大規模開発プロジェクト」になっていることだ。Linux開発に携わるハッカーは、世界中で数千人規模に膨れ上がっている。

 インターネットがない時代のフリーソフトは、同じ大学の研究室の仲間など、物理的に近いところにいる少人数のプロジェクトであることが普通だった。インターネットというインフラが、この物理的制約を取り払ったのである。

 従来のソフト開発の常識からすれば絶対にあり得ないやり方――スペックもない、製品計画や製品戦略もない、開発工程管理もリリース計画もないインターネット上のバーチャル大規模開発プロジェクトから、ウィンドウズNT以上と評価される完成度のOSが生まれ、日々進化を続けているのだ。

 ハッカー達は、一緒に働いている仲間にはほとんど会ったこともない。メンバーは固定でなく、誰かがマイクロソフトに引き抜かれてプログラムを書かなくなっても、どこかの(例えばロシアや中国の)ハッカーがその穴を埋める。実に不思議だが、現実に、そんなことが起きている。

 もう1つの違いは、80年代のフリーソフトが反商業的だったのに対して、Linuxの創始者Linusが、Linux周辺でのビジネス展開に対して、寛容で柔軟な態度で臨んだことである。この点がフリーソフトとオープンソースとの決定的な違いでもある。

 98年4月、ネットスケープによるソースコードの公開直後、Linusをはじめとするフリーソフト関連の大物ハッカー達が、シリコンバレーのパロアルト市に集まった。彼らは反商業的なイメージの強い「フリー・ソフトウエア」という名称でなく、ビジネス戦略用語であるかのような響きを持つ「オープンソース」という名称を今後使っていくことで合意した。

 ソフトの中核部分はハッカー達にとって、最もエキサイティングで面白い開発であり、「オープンソース」型開発が最も有効に作用する部分でもある。しかし、その開発成果だけでは、世の中に普及しない。ユーザーインタフェース部分のソフト、ソフトのインストレーション、さまざまなハードウエアへの移植、顧客対応のシステム・インテグレーション、サービス・サポートやトレーニングなど、ハッカー達が全く興味を示さないいくつもの要素が普及の鍵を握る。

 中核部分が無償で作られたものでも、その周辺で付加価値をつける普通のビジネスマン達は、ちゃんとお金儲けをして構わない。オープンソースには、こんな意味が込められている。ハッカー達と普通のビジネスマンの間での歴史的合意だと言っても過言ではない。

 98年8月21日、サンノゼ市で、「オープン・ソース・デベロッパー・デイ」という盛大な会議が開かれた。Linuxやネットスケープ関係者ばかりではなく、同時多発的にネット上で進行するさまざまな「オープンソース」型開発の関係者で溢れていたが、ハッカー達に混じって、ビジネスマンもかなり見掛けられた。

 議題の中心は、「オープンソース型プロジェクト管理のあり方」、「オープンソースにおけるビジネス・モデルとしてどんなものがあり得るのか」、「ライセンシングと法的な課題」――など。どの話を聞いても、まだまだ矛盾点が多く、解決しなければならない問題が山積で、粗を探せば「駄目な理由」はいくらでも考え付く。しかし…。

 70年代後半から80年代前半にかけて「パソコンなどというオモチャが情報システムとして使われるわけがない」、これが常識だった。90年代前半には「インターネットのような中央管理機能のないいい加減なネットワークが、情報スーパーハイウエーであるはずがない」。それが常識だった。しかし、起業家のエネルギーと技術革新の進行は、巨大なパソコン産業やインターネット産業を生み出し、世界が変わったことを思い出してみよう。

 私は、オープンソースの流れは、産業構造を変えてしまうほどのインパクトを持つと、強く思う。これは、まだまだ「過激な少数意見」に過ぎない段階だが、何か得体の知れないことが起ころうとする予感に満ちている。この世界を、ここシリコンバレーで私はずっと見詰めていこうと思う。

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