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ジョブズ氏、アップル救う

1998年12月13日[日経産業新聞]より

 「I'm an old man.」(おれももう年寄りだよ)
 インタビューに答えてこう語るステイープ・ジョブス氏は43歳。1977年に22歳で米アップルコンピュータを創業して以来21年、カリスマ的リーダーとしてコンピューター産業の第一線で活躍し続けている彼の年齢は「もう43歳」と思うべきなのだろうか、それとも「まだ43歳」と思うべきなのだろうか。


 97年9月、ジョブズ氏が暫定最高経営者(CEO)に就任した時のアップルはひん死の状況にあった。

 アップルの97年度決算(96年10月から97年9月)は売上高71億ドルにたいして10億ドルの赤字(売上高比14%)。しかし、それから1年で、98年度決算(97年10月から98年9月)は売上高59億ドル(前年度比83%)に対して3億900万ドル(売上高比5.2)の利益を上ける急回復をみせた。

 ジョブス氏が暫定CEOに就任した当時17ドルと低迷していた株価は、12月上旬現在、倍額の34ドル前後で推移している。

 「Steve had saved Apple.」
(ステイーブがアップルを救ったんだ)

 こんな言葉が、シリコンバレーのビジネスランチではあいさつ代わりになるほと、数代のCEOが成し遂げられなかった再建を、この短期間でやってのけたジョブス氏の手腕は見事というしかない。

 ジョブズ氏の再建施策の骨子は、

 (1) 一般コスト削減(研究開発費の半減、人員削減)
 (2) 在庫の削減、受注生産、直販を含めたサプライチェーン・マネジメント革新
 (3) マイクロソフトとの大型資本・技術提携
 (4) 互換機市場の完全閉鎖
 (5) 製品戦略の転換(多様化しすぎていた製品ラインを集約)によるヒット商品の創出

の5つであった。


 アップルのパソコン市場での世界シェアは、94年の8.3%から98年初頑には4%と半減し、ピーク時の約半分の売り上げで利益を出せる体制とするには、まず「(1)一般コスト削減」は必須(ひっす)項目であった。また、パソコン産業はデルが持ち込んだ新しい競争のルールに、否が応でも対応せねばならなくなったのだから、パソコンを主要製品として生きていく同社が「(2)在庫の削減、受注生産、直販を含めたサプライチェーン・マネジメント革新」にまい進したのも当然の流れであった。

 ジョブス氏がアップルの実権を握ってすぐにビル・ゲイツ氏との間で合意した「(3)マイクロソフトとの大型資本・技術提携」は、宿敵マイクロソフトの産業支配力は無視できないとの現実的決断だった。

 そして間題は「(4)互換機市場の完全閉鎖」と「(5)製品戦略の転換によるヒット商品の創出」の成否であった。1億ドルもの大金を支払って互換機メーカーであるパワー・コンピューティング杜の株式を取得した上で、互換機事業を清算。他の互換機メーカーへのライセンス供与も中止した。

 こうしてアップル製のパソコンはアップル・ブランドでしか手に入らない状況を作った上でニュートンなどの失敗製品から撤退。ピカソやアインシュタインといった強烈な個性の天才たちのキャラクターを活用した「Think Different」(違った考え方をしよう)広告キャンペーンに1億ドルを投入してアップルのブランド価値を高め、ついに98年8月、起死回生の新製品「iMac」(1299ドル)を市場に投入。発売約6週間で28万台(米国)を売り切り、その後、日本市場も含め、世界的大ヒット商品となった。iMacはインターネット・マッキントッシュの意味。「インターネット時代のパソコンとは何か」というテーマに対するビジョナリーとしてのジョブス氏の回答だった。


 (1)(2)(3)は再建にどうしても必要な執行(Execution)項目で、力ずくでも突現していくべき性格の施策である。コンピューター産業のビジョナリーでなくても、経営のプロならば、やってのけられる仕事だったろう。

 しかし、(4)(5)の一連の動きは全く違う。ジョブス氏のカリスマ的創造性がいかんなく発揮された、正真正銘の天才の仕事だったのである。

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