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90年代日本のコンピュータ産業・危機の構図と解決策
〜1993年、中央公論寄稿論文から

2001年2月19日[BizTech eBiziness]より

今回の更新では、1993年に「中央公論」に発表した2つの論文をアップした。「ハイテク日本危機の構図」と「コンピュータ日本まだ起死回生の秘策はある」。それぞれ400字詰め原稿用紙で35枚。私の原点とも言うべき論考である。

 1991年から92年にかけて、私は、当時勤めていたコンサルティング会社のサンフランシスコ事務所で1年間仕事をする機会を得て、初めて「本物のシリコンバレー」に内側から接することができた。

 当時の米国コンピュータ産業は、ダウンサイジングとオープンシステム化という、産業始まって以来の激震に見まわれていた。メインフレーム時代(第1世代)からPC時代(第2世代)へのまさに大転換期。産業界の覇者・IBMが赤字転落し、マイクロソフト、インテルら新興勢力の台頭が目にまぶしかった。

 日本のコンピュータ産業は、米国から数年遅れでだいたい同じことが起こるという体質を持っているため、「ああ、このままでは、日本のコンピュータ産業は破綻してしまう」と、私は強い危機感を抱きつつ、日本に帰ってきた。帰国してすぐに発表したのが、「ハイテク日本・危機の構図」である。

 当時の「中央公論」副編集長の河野通和さん(現編集長)から、「危機の構図」を前編、「その解決策」を後編として、2回に分けて、考えるところをきちんと書くようにと申し渡された。しかし、前編を4月に発表してから、後編「コンピュータ日本・まだ起死回生の秘策はある」ができあがるまでに7カ月もかかってしまった。

 その7カ月の間に私が書いたいくつかの「後編」は、掲載のレベルには至らず(つまり「没」になった)、自分には「後編」を書くことが果たしてできるのだろうかと悩み続けたのを思い出す。でもこの厳しいプロセスのおかげで、「モノを書いて発表する」というのはどういうことなのかを身体で理解することができた。この経験は、その後の私にとっての、何にも代え難いかけがえのない大きな財産になった。

 次回の本欄では、この2論文を取っ掛かりとして、日本のコンピュータ産業の「その後」(90年代)と「これから」(21世紀)について、考えてみたいと思う。まずは、インターネットの「イ」の字も出てこないずいぶん昔の論文ですが、日本コンピュータ産業の「苦悩の始まり」を考えるという意味で、是非ご一読いただければと思います。

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