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日本コンピュータ産業のその後とこれから

2001年2月26日[BizTech eBiziness]より

 「失われた10年」などという言葉を持ち出すまでもなく、90年代の日本企業はおしなべて苦しみ続けたが、不良債権問題が足を引っ張る金融・ゼネコン・流通をはじめとする産業セクターと違い、半導体・コンピュータ・エレクトロニクス企業の苦悩は全く別のところにあった。

 前回の更新では93年に書いた2つの論文、「ハイテク日本危機の構図」と「コンピュータ日本まだ起死回生の秘策はある」をアップしたが、この2つの論文は、「ダウンサイジングとオープンシステム化」という産業変化(米国では80年代後半から90年代初頭、日本では90年代前半)に対して、日本企業はどんな手を打たなければならないかをまとめたものであった。

 7年前の私の提言は4点。

(1) ソフトウェア・サービスで収益を上げる仕組みを(国内システム事業) (2) コンピュータ事業の本格的グローバル展開を(ハードウェア事業) (3) 米国での市場創造に積極的に関与すること(新規事業) (4) 中長期的にはコンセプト創造型事業を(研究開発・ベンチャー投資体制)

 残念ながら、日本企業でこのすべてに成功して、情報技術(IT)産業の覇権争いに食い込み続けている企業は1社もない。

 時間はかかったが何とか(1)はやり遂げ、(2)は果敢に挑戦した企業もあったがほとんど失敗し、(3)については、94年からネット時代が到来し、せっかく米国で巨大な新市場が創造されたのに、そこにはほとんど関与できなかった。(4)については、チョロチョロとやっている企業もあるが「大きな成功体験」を作れるには至っていないというのが現状である。

 突き詰めていえば、(2)(3)(4)の成功に必要な「米国でインサイダーとして生きていく決意」が足りなかったのである。

 一方同じ時期、米国では全く違うことが起きた。

 ネット時代の到来とともに、90年代半ばから「大企業対ベンチャー」の覇権争いが熾烈化したことによって、攻め込まれた大企業が力の限りを尽くして「新しい経営観と新しい経営手法」を編み出して執行した。
 97年に書いた「シスコ、買収続け急成長」に詳しいが、それは「大企業がベンチャーを買収してしまう」というコロンブスの卵のような手法だった。しかし、競争相手を直接取り込んでしまうわけで、これ以上ないほどの効果を発揮した。

 シスコが考え出して成功したやり方は、やや我田引水になるのを承知で書けば、私の提言の(2)(3)(4)を有機的に結びつけた経営手法ということができる。

 大企業は、コーポレート・ベンチャー・キャピタルを持ち(4)、リスクの高い市場創造活動はベンチャーに任せつつウォッチしていて、頃合いを見計らって買収して社内に取り込み(3)、自社の強みである販売チャネルに乗せてグローバル事業に一気に育てる(2)という方法である。

 シスコの成功を誰もが見習い、この経営手法は一気に普遍化した。いつしかベンチャーの方も、大企業に買収されることを夢見て創業するようになり、IT産業に全く新しい分業構造が生まれた。つまり、ハイリスク型の研究開発と市場創造は、ベンチャーの激烈な競争に任せる。そしてその淘汰の挙げ句に生き残った「強いベンチャー」のみを「強い大企業」が買収して取り込んで、大きな事業に育てるという実に効率的な分業である。コンピュータ、ソフトウェア、通信機器、半導体、すべての分野で、この構造が一気にできあがったのだった。

 冒頭で、「半導体・コンピュータ・エレクトロニクス企業の苦悩は全く別のところにあった」と書いたが、90年代後半の日本企業の苦悩とは、この新しい分業構造によってますます強靭になった米国IT産業との競争や協調における苦しみだったのである。

 ほぼすべての価値を日本人によって創出し、才能の違いを報酬の多寡にはほとんど反映させず、組織力によって「電子立国」を作り上げてきた日本企業にとって、90年代に目の前で繰り広げられた現実は、まさに悪夢だったのである。

 しかし2000年という年は、そんな日本の半導体・コンピュータ・エレクトロニクス企業が何やら脱皮し始めた予兆を感じさせる1年でもあった。

 ソニーは、米ソレクトロンに2つの生産事業所を売却し、工場の所有にはこだわらない「新しい物作り」戦略を鮮明にした。NECは、子会社公開などで今後3年間に約6,000億円の買収資金を用意し、「株価交換を用いた米国でのベンチャー買収」を可能とするための新しい枠組みも準備するという構想を発表した。NECと日立は、DRAM事業を統合してエルピーダメモリを設立、近い将来の株式公開を目指す。また日立は、光通信用部品事業を切り離し、米投資会社クラリティ・グループとの米国合弁会社を作り、「株式公開を前提とした米国のベンチャー」として1事業を育てていく決心をした。

 こうした一連の新しい施策は、日本企業が、雇用問題、グループ経営構造、純潔主義など、これまで縛られてきた「経営の不文律」からすでに自由になりつつあることを意味している。

 しかし未だに、「米国でインサイダーとして生きていく決意」を強烈に示す日本企業はない。また、脱皮し始めたとは言っても、まだチョロチョロと小さく始めたに過ぎない。

 私の主張は7年前から全く変わらないのであるが、こと情報技術(IT)産業の世界で、高収益かつかなりの規模の事業を長期にわたって営んでいきたいならば、苦しくても米国にもっともっと本気でコミットしていかなければならないし、苦しくてもリスクを取って新市場創造に絡んでいかなければならない。向こう10年から20年は続く情報技術(IT)革命の担い手たらんとする競争は、他産業からは想像できないほどに厳しい挑戦なのである。

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